『国際ジェンダー関係論』サンドラ・ウィットワース著、武者公路公秀ほか監訳、藤原書店
東京人 2000年二月号
昔は政治学や経済学などは男性の学問と考えられていたようだ。そのようないかめしいものをなぜ専攻するのかと、国際政治学を志しはじめたころ私もよく聞かれた。戦争と平和の問題は男女いずれにも多大な影響を与えるから、と簡単に受け流していたことを思い出す。私が日本で国際政治学の講義をするようになったとき学生の9割は男子であったが、最近では女子が5割も占めるようになり、女性は理系や社会科学に向いていないというジェンダー化(社会的な性差の強調)作用による女子の専攻の自主的限定化という見えざる差別が克服されてきたことを実感する。
本書は、国際関係論という学問の男性支配(male-stream=mainstreamを捩っている)により、学問が必要以上に戦闘的な現実主義の内容に限定されて「戦闘行為が特権的な活動であるような権力と対立の世界」の概念化がすすみ、また権力に関する問題は女性には向かないと示唆することにより、実際の社会の権力構造からも女性が自主的抑制も含めて排除される結果をもたらし、一層戦闘的対立の世界観への傾斜が進んだことを指摘している。そして、このような学問のジェンダーバイアスを是正するための方向性を思想の観点から論じている。北米では女性の国際政治学者が急増しており、国際関係論とジェンダー問題の絡みは先端の分野となっているが、日本では類書が少なく、このような代表的な著作の翻訳が日本におけるこの分野の開拓につながることを期待したい。
著者はジェンダーの視点は3つに大別できるとする。第一はリベラル・フェミニズムと呼ばれる穏健な立場で、「現代社会の主流に女性を組み入れる」ことをめざしている。国際関係における女性の過少代表の問題を明示し、女性の参加を拒む障害を指摘する。たとえば核兵器に関する重要な地位は世界中で八〇〇あるが、女性はわずか5人しかその地位を占めていない。これは家庭での女の子らしさ教育に始まり、大学の専攻や専門家としての就職におけるジェンダー差別ゆえの極端なケースであるという。国際政治では安全保障や外交の領域はハイ・ポリティクス(高次の政治)と呼ばれ、この高次の領域には女性は適さないという暗黙の偏見が根強く、女性には「私的な」圏域が歴史的にあてがわれ、戦略や外交をはじめ政治性の高い分野から排除されたという。
同時にリベラル・フェミニズムは、女性は実際には国際関係にさまざまな形で貢献してきたが、男性中心的視座のために女性の活動は見えなく、無視され軽視される不可視的なものにされてしまったとも指摘する。17世紀のヨーロッパでは、4万人の軍隊に対して看護、調理、生活用品の支給にかかわるなどで10万人の女性が「合法的に」軍務を共にしていたが、戦争は男性の営みとしか理解されなかったのと同じように、今日の経済発展において女性労働者の寄与は不可視的に扱われがちである。そして、実際に女性にあてがわれる就労の形態や領域が系統的差別の対象となっているためにその問題を直視することを避けて歴史は綴られる。
第二の立場はラディカル・フェミニズムと呼ばれ、リベラル・フェミニズムのように女性の諸活動を視野に入れるために研究の範疇を拡張することは男性中心の社会構造を暗黙のうちに受け入れるだけであるといい、また男性の価値規範ですでに構成された社会構造に女性がメインストリーム化を果たしたところで、男性の価値に取り組まれるだけであるという。現に成功した女性たちがタカ派のポジッションをとったり、男性の行動様式を真似たり、男性によって表明される価値観に擦り寄るのはリベラル・フェミニズムの限界であるとする。
ラディカル・フェミニズムは、育児者としての女性が保有しやすい「いつくしみ、忍耐、平和愛好的性格という女性的な諸価値」が「攻撃的で、権力志向が強く、傲慢な男性」の一般的な傾向と対比させる「本質主義的な考え方」をとり、前者こそ優越したものとして社会で扱う転換を行わなくてはならないという。そして、「個人的なものは政治的なものである」というスローガンにも表れているとおり、公的領域と私的領域の区別を拒絶し、私的領域は同時に政治的なものであり、戦略や外交を高次な政治的分野とする観念そのものを否定する。ラディカル・フェミニストは生物学的決定論をとらずに、母親として世話すること(mothering)のような社会的実践が男女間の基本的差異を作り出すといい、ラディカル・フェミニストである男性も当然存在し得る。育児に典型的に表れるケア=慈しんで世話をする、という実践に生きる意識のある人々が政治や外交を行えば、「戦争と平和の双方とも全く異なる仕方」になるという。
第三の立場はフェミニスト・ポストモダニズムであり、そもそも女性とは社会的な構築物であり、便宜的に作られた虚構のカテゴリーであって脱構築しなければならず、「階級や人種、性的志向の、単一的で総称的な」女性を想定するジェンダーアイデンティティは無意味であるとする。これは、すべての問題意識やアプローチは自然のものではなく、社会的に構築された視点に基づくというコンストラクティビズムの立場に近く、なぜそのような構築が形成されたかの経緯を軸に現代に至る社会史と政治史を分析することによって、ジェンダー問題を知的体系のメインストリームに絡ませていくことがでることになる。
こうして知識の構築におけるジェンダーメインストリーミングこそ地位向上などより重要といっても、そのような視点が国際関係論で堂々と展開されるようになったのは、まぎれもなく北米では彼女たちが大学という社会的組織で主流化して相次いで地位と評判の高い政治学の教授となったからでもあり、初心さえ忘れなければ、リベラル・フェミニズムの有効性も否定できないであろう。他方で、せいぜいリベラル・フェミニズムの観点からメインストリーム化すること程度が課題となっている日本では、ラディカル・フェミニズムの批判の好例にならないためにも、なぜ、そして何のためにメインストリーム化するのかを女性たちは考えなければならない。