衆議院憲法調査会第一回中央公聴会

2004年5月12日

 

(公述の骨子)

 

上智大学法学部教授 猪口邦子

 

 

会長、

 

本日、衆議院憲法調査会第一回中央公聴会にて公述するという重要な役割を賜り、感謝と厳粛な思いを抱いて参りました。私の専門は国際政治学であり、長年大学で研究と教育に従事して参りましたが、2002年4月から2年間にわたり軍縮会議日本政府特命全権大使としてジュネーブに赴任し、外交実務に携わる機会に恵まれ、帰朝したばかりであります。ジュネーブでは軍縮会議の議長も務め、またニューヨーク国連本部にては、国連総会の軍縮と国際安全保障に関する分野の担当大使としても活動いたしました。このような外交実務の経験も踏まえ、本日は、日本国憲法の下において、戦後日本が主権を回復してから半世紀余りにわたる政府と国民社会の誠実な努力の積み重ねの結果、日本はいま、国際社会においてどのような地位と評価を獲得し得たのか、また世界が日本に寄せる期待と希望とはどのようなものかをまずは報告申し上げ、さらに日本国憲法とわが国の国際貢献に関する最近の世論の動向を踏まえ、若干の議論をいたしたく存じます。

 

(多国間外交の現場からみた日本の国際的地位と評価)

 

本日、私はまず、国際安全保障分野の多国間外交の場において、日本は、頼りになる大国として認識され、また各種の問題の解決において高い能力を発揮する国家として評価されていることを、そして日本の大使は、大国の大使としてそれに相応しい重きをおいた扱いを広く各国から受ける時代となっていることを、日本の議会に何としても報告しなければならないと感じて参りました。そのような日本の国際的地位は、当然のことであり、取り立てて言及する必要もないとのお考えもあるかもしれませんが、半世紀余り前、国際的地位も経済力も完全に失ったわが国が、今日、このような確固たる高い地位を国際社会で享受するようになったことを外交最前線で日々実感してまいりました私としては、深い感動をもってそのことを認識せざるを得ません。

 

(すでに築いた国際的地位を憲法認識の出発点に)

 

日本国憲法を考えるという機会に、私は、戦後、この憲法の下で、大きな希望を抱き、多様な可能性に挑戦し、また憲法によって課されたある種の制約の範囲で工夫しながら、日本にそのような高い国際的地位と評価をもたらすことに成功した世代に、私の世代から、心からの感謝の意を伝えなければならないと思っております。日本国憲法を再検討するどのような試みも、その点、すなわち、戦後日本の国家と社会の努力の評価と、それが現にもたらした世界における貴重な存在感についての深い認識を出発点とする必要があるように感じます。そうすることにより、仮に国民世論が今後、憲法の修正を求めることとなった場合にも、軸足が浮遊して過度な修正へと漂流することなく、必要最小限の簡潔な修正によって連続性を保ち、すでに日本国として国際社会において築いた地位や評価を混乱させることなく発展させ、将来の国民に引き継いでいくことが可能になると考えます。

 

(憲法のオーナーシップ)

 

従って、憲法を再検討するということは、文言調整や表現の含意についての討議、あるいは直近の出来事に触発された論議に終始することであっては決してなりません。憲法を再検討するということは、この国が、戦後歩んだ険しい道のりを国民各々が振り返り、その努力を慈しみ、その志がもたらした現代日本の国際的な地位を再認識して正当に評価し、それに相応しい責任感と未来への対応力を深める国民的経験となる必要があります。その意味において、憲法を調査し、検討するプロセスは、日本国憲法についてすでに存在する国民のオーナーシップ、すなわち憲法についての深い所有感や自らのものとして慈しむ気持ちをさらに強化する有意義な政治プロセスであると認識しております。

 

憲法改正論の一部に、日本国憲法は占領下において公布されたことから真に日本のものとは言えず、独自の憲法に書き換えるべきとの議論があることは承知しております。しかし、日本国民は、議会と政府と各人の日常の努力を通じて、半世紀をこえてこの憲法を守り抜き、その理想の示す到達点を目指して努力してきたのであり、その歴史的時間の重さを思えば、この憲法はまぎれもなく日本国民のものであり、またそれを否定することは、日本の戦後の歴史的時間を誠実に生きた無数の国民の努力を軽んじることにもなりかねません。従って、そのような観点からのみの改正論は適切ではないと考えますが、他方で、最近においては、国際貢献の観点から憲法の再検討が必要である旨の意見が国民世論において増加していると承知しております。

 

会長、

 

(日本の国際貢献についての世界認識)

 

ここで、日本の国際貢献を世界はどのように認識し、評価しているかにつき、一人の研究者及び元外交官としての限られた経験に基づく意見であることをお許しいただきつつ、公述いたしたく存じます。

 

わが国が憲法第9条1項において、国際平和を誠実に希求する志の証として、国権の発動たる戦争等の放棄を掲げていること、また2項において陸海空軍その他の戦力は保持しないという考え方を示していることは、今日では広く国際社会で知られており、その志と理念は、戦禍に苦悩した歴史を真剣に受け止めるという国民の真摯な生き方および国家の賢明な選択を伝えるものとして、世界で特別の評価を獲得するに至っていると感じております。その評価は、戦後日本が経済成長に成功し、世界経済の発展や低所得国の救済に寄与した実績等にも補完されて高まったと感じております。

 

世界は日本が、軍事面での国際貢献においては制約を有していることを了解しており、またその制約の範囲内で近年にみる国際貢献についての著しい工夫を行ってきたことを正当に評価し、またその日本の努力を温かく支援する友情を示してきました。現代国際社会が建設的に発展するには、多様性への寛容を育むことが最も基本的な課題であることはいうまでもありませんが、世界は唯一の被爆国である日本の特別の国民的思いを礼儀正しく受け止めていく過程を通じて、現代国際社会における多様性への寛容の精神を体得する契機をつかんできた側面があるとも言えます。どの国も自らの履歴から生まれる特殊性、いわば個性のような、グローバリゼイションの時代のなかでも標準化され得ない部分を内包しています。平等な主権国家間におけるそのような部分をどのように相互に受け止め合っていくかは、今後の国際社会の大きな課題ですが、日本は自らの特質についての謙虚にして毅然とした国家の姿勢を示すことによって、世界に多様性と向き合う教育的機会を与えた面があり、欧米諸国はまた、軍事的制約を負いながらも誠実に貢献努力を模索する日本を肯定し、評価することにより、多様性への政治的感性を高めたとも言えます。日本は、そのような自らの国家としてのあり方を過小評価するのではなく、むしろ国際社会への長期的な啓発力を信じて積極的に発信し、また日本の姿勢を肯定的に受け止める各国の多様性の受容を、より積極的に外交を通じて評価していくべきであると感じます。

 

(軍縮・不拡散・人道支援による和解への国際貢献)

 

どのような戦争も必ず終わり、その後において、戦後復興の長く、不安定なプロセスが続くことになります。戦後復興の失敗は内戦や紛争の再発につながりやすいため、戦後復興プロセスにおいて軍縮・不拡散・人道支援を中心とする具体的な協力に成功し、その実績に基づく和解へのプロセスを誘導することは戦争を最も直接的に予防する貢献となります。いうまでもなく、戦争は、未然に予防することこそがそれに対する正しい対応であり、その意味で戦後復興に貢献することは過小評価してはならない重要な予防的(preventive)かつ修復的(remedial)な国際貢献であり、自負をもってその観点からの具体的支援に現地において取り組みつつ、合わせて各勢力の和解を仕掛ける外交力を発揮すべきです。

 

戦後復興期において戦争の再発を防ぐためには、治安回復のための武装解除や治安セクターの改革、そして小型武器軍縮なども含む広範な軍縮・軍備管理政策の実施が必要であり、同時に人心を安定させて諸勢力の和解への意思を引き出すための人道支援が必要です。ここで一言、私が特別に思い入れて国連で推進してきた小型武器軍縮につき謹んで言及することをお許しいただきますが、小型武器とは人が一人で操作できる戦争用殺傷兵器を意味し、この武器範疇は、戦争終結後の移行期を含め毎年50万人の死をもたらし、アナン国連事務総長も、これを「事実上の大量破壊兵器」と称しました。日本は昨年7月、最初の小型武器軍縮実施のための国連会合の議長国に選任されましたが、これは日本が国連で獲得したこの種の会議の初めての議長職であり、私は軍縮会議日本政府代表部の館員たちと必死で小型武器軍縮実施のための優先措置とその方法についての議長総括をまとめ、無理かと思いながらも猛烈な外交協議を連日繰り返してついに大国も小国も世界が全会一致でこの議長総括を添付した報告書を採択することを実現できました。現在、この国連会合を受けて世界各地で具体的な小型武器軍縮への措置が講じられ始めています。

 

さらに近年においては、大量破壊兵器と関連装置の不拡散を徹底することも、テロの破壊力を押さえ込み、広く国際社会の信義を守るために必要であり、日本は軍縮・不拡散・人道支援の分野における工夫ある貢献を、外交活動と、具体的実施の活動の双方において着実に行っていくべきであります。戦禍に病む紛争直後の不安定な移行期における支援の具体的実施のについては、防護力のある実力組織に依存しなければならないことも少なくありません。その場合、憲法第9条にみる日本の平和への哲学を基本的には保持しつつ実行できることも多いのではないか、よく研究し、工夫ある努力を誠実に示しながら、国際貢献についての哲学的立場を信念をもって前向きに世界に説明し、積極的に発信し、評価を得ていくべきであると考えます。

 

会長

 

(自衛隊の機能と憲法)

 

軍縮・不拡散・人道支援を日本の国際貢献の特質とすることについて、それは軍事的リスクや危険を回避する臆病なやり方であるとの批判があるとすれば、断固として反論し、論破すべきです。紛争直後の社会は、予断し得ない不安定性や不確定性を帯びている場合が多く、どのような分野でどのような機能を担う実力組織も、各々のリスクを覚悟して赴いているのであり、職域に殉ずる潜在的な危険性は、その地で活動するすべての部隊とその成員にあるというなかで日本の自衛隊も尊い協力をしてきたのです。そのように世界に認識してもらうことが必要であり、その視座を欠くと、平和のための国際貢献を担う任務で日本から派遣される組織の一人一人に対して、国家として正義ある立場にはなりません。

 

いうまでもなく、日本の国際貢献は、自衛隊のみが行うものではなく、問題解決を導く政治・外交力をはじめ、経済・社会開発支援も含め日本の政府と社会の各方面の総合力をもって効果的に展開していくべきものであります。しかし、紛争直後の社会の不安定性を考えれば実力組織によってしか効果的な貢献が望めない状況もあり、日本は法律に基づき憲法の定める範囲内において自衛隊による国際貢献を行ってきました。また日本は自衛のための必要最小限度の能力を有する必要から自衛隊の機能を維持してきました。その事実を踏まえ、生命のリスクを負いながら日本の安全保障と国際貢献に尽くす組織の憲法上の位置づけをより明確にすべきとの見解については、今後、国民世論が憲法の修正を求めることとなった場合には、第9条の基本を維持しつつ簡潔に、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する国家として保持する、自衛のための実力組織につき言及する可能性は研究するに値する面があります。他方で、その場合においても、個別の法律で扱うべき範囲の事柄を憲法に織り込むことや、今後の国際情勢や国連の活動の方向性を予断して複雑な修正を試みることには慎重であるべきと考えます。

 

(結語)

以上、国際政治学の一学徒としての研究と、元軍縮大使としての経験に基づき、国際社会における日本のあり方との関連において、日本国憲法についての基本的な考え方を公述いたしました。すでに述べましたとおり、憲法について開かれた議論を行い、憲法への思いを改めて深めていくことは、民主主義社会として大変に有意義なことであり、国権の最高機関において、委員長の優れた指導力に基づき憲法に関する調査が熱心に執り行われていますことに敬意を評します。グローバリゼイションのさまざま試練に社会が直面する時代のなかで、国民が一致して誇りに思い、安心した帰属感を抱ける国民国家を維持・発展させていくことは政治の根本的使命であり、憲法を再考していく政治過程が、日本国民を分断することなく、深い共同体感を培う経験となるように運営されますことを願っております。委員長を通じて、全委員の先生方のご努力に謝意を表明し、その英明なるご判断を信じ、私の公述を終わります。ご清聴に感謝申し上げます。(了)