フォーブス日本版04年1月号掲載 / 連載エッセイ「成功する国際交渉」第1回
国際政治学の教授職から転じ、軍縮大使としてジュネーブに赴任して1年半余り。私の任務の範囲は条約交渉機関であるジュネーブの軍縮会議のみならず、ニューヨーク国連総会の軍縮・国際安全保障分野も含め、在外での多国間軍縮外交のほぼ全域に及ぶ。
その責任は重く、多くの人の命と運命にかかわる内容を扱うので、どうしたら軍縮外交を成功させることができるかという観点からの努力を常に心がけてきた。
日本ではよく、うまくいかなくてもがんばるプロセスが大事であると言う。しかし国際安全保障のような平和にかかわる分野においてはプロセスより結果重視で、結果として外交を成功させなければならない。大使の活動は与えられたマンデート(委任事項)の範囲に限定されるが、その範囲内でさまざまなことを試み、また途方もない努力も重ねてきた。
世界は軍縮に味方している状況とは言いがたいが、被爆国としての思いを胸に軍縮分野で世界をリードするのは日本として当然のことでもある。
■外交のプロたちの難問
物事を成功させていくには、その決意を持つ人が影響力を拡大していく必要がある。多国間軍縮外交にかかわる国の数は多く、ジュネーブ軍縮会議は65か国、国連総会は190か国以上、各種の条約体制も100か国を超えるので、その中で影響力を広げていくのは容易ではないが、日本が主導権を取れば交渉を失敗させることはないという直観があった。そして直観とは案外と外れないものだ。
なによりも私にはキャピタル(外交では本省をこのように称する)の猛烈な支援があった。外交前線から願い出て受け入れられなかった対策はほとんどなく、竹内行夫外務事務次官自ら軍縮不拡散政策に指導力を発揮する中、主管組織を率いる天野之弥軍備管理・科学審議官の徹底したサポートが在外の代表部に届く。
むろん本省は、山積する懸案に追われているので、在外で陣頭指揮をとる者としては、総司令部である本省に常に詳細な情報を上げて自らの戦線への注意を喚起する努力は必要だが、求めれば必ず底力のある助けが得られる確信は、私の外交スタイルを積極的で明るいものにしていった。
もっとも、初めから本省との関係性を心得ていたわけではなく、研究者としては物事を自ら願い出る必要もなくおっとりと生きてきてしまったので、忙しい本省の関心を、私が事務統括する分野に引き寄せるたくましさを身につけなければならなかった。本省との深い信頼関係は、成功する外交の基本編にほかならず、信頼は相手から得るよりまずは自分から与えることも基本編には含まれる。
ジュネーブには、多国間外交のプロの優れた大使が集まっていた。なぜこれだけ世界の人材を得てもなお、多国間外交が各方面で頓挫しているのか不思議であったが、私が着任した時は、軍縮会議は6年間も核軍縮の条約交渉に全く手をつけられない状態だった。
大量破壊兵器分野では生物兵器禁止条約の条約強化会議も混乱の末、中断したままとなっていた。通常兵器分野では、世界で最も多くの戦争関連死の手段となっている小型武器の軍縮プロセスが根深い対立に引き裂かれたまま滞っていた。対人地雷禁止条約は一定の成果を挙げていたが、NGOや小国主導の条約体制であるため、世界規模の地雷除去が不十分なまま犠牲者が
増え続けていた。
理由はすぐ見えた。えりすぐりの外交のプロであるだけに、現下の国際情勢の厳しさを見据えて皆自信を失っていた。大きな仕事をしようとして何もできなくなっているかのようだった。それだけに学界という異世界から着地した私を、どこか期待をもって温かく受け入れる雰囲気があった。異種への寛容は苦境期の特徴かもしれないが、その寛容さに私は彼らのプロのあかしと、欧米勢中心の軍縮外交界での私のチャンスを見た。
私はまず、逆風の中では小さな成果の積み重ねで自信を回復していくことが必要であり、軍縮外交の成功は野心的な試みからは生まれないと皆を説得した。また軍縮不拡散分野ではパラダイム・シフトが見られるので、物事に柔軟に取り組む発想が必要であることも理解してもらった。半年ぐらいたつと成果が出始めた。生物兵器条約強化体制も小型武器軍縮の国連プロセスも、日本が強い主導力を発揮する中で成功裡に進展するようになる。
やがて私は軍縮会議の議長となって、一時は完全に不可能に思われた次代の核軍縮条約・カットオフ(兵器用核分裂性物質生産禁止)条約の交渉開始の方向性を整えつつもある。対人地雷分野でも、大使としての意見具申が本省に聞き入れられて日本はついに条約の地雷除去部門の共同議長となり、地雷除去活動をリードする立場に立った。
■湖畔の公邸を舞台に
私が軍縮外交を通じて貫いてきたのは、そしてその困難さと向き合ったことこそが成功の秘訣であったと思うことは、全会一致主義である。どの分野においても、全加盟国の同意をとりつけ、どの一国も疎外せずに、どの国の懸念事項にも配慮するという決意を明らかにしていく中で、日本は強い信頼を全方位から得ていく。そして日本のそのような外交スタイルへの信頼感から、各国は柔軟性と協調的精神を発揮して結果としての全会一致の成立に寄与してくれるようになる。
レマン湖を見下ろす小高い丘の上の私の公邸は、毎週、おおぜいの軍縮大使や各国本省からの交渉官が集って各種の非公式協議を繰り広げる外交の舞台となった。
館の主人として、料理、食卓の飾り付け、居間のしつらえ、庭園の状態などさまざまなことに気を配りながら、笑顔と緊張感と集中力をもって交渉の方程式を解いていく。
「あなたの公邸での協議はジュネーブきっての水準と大使連中が言っている。合意の素地がそこで生まれるってね」。軍縮研究者として著名なレベッカ・ジョンソンが先日、ニューヨークの国連本部の廊下ですれ違い際に言ってくれた。この日本の丘から平和を。軍縮大使公邸のテラスに立っていつも思う。
(フォーブス日本版04年1月号掲載)