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フォーブス日本版04年2月号掲載 / 連載エッセイ「成功する国際交渉」第2回


激しい朝の時間と交渉力



 ジュネーブでの私の朝は早い。国際交渉に成功するためには、大使は何より冴えた頭脳で朝を迎える必要があり、夜更かしは厳禁である。常にベストコンディションを維持して自らのピーク・パフォーマンスを目指すスポーツ選手のような心構えが、国益や平和にかかわる外交交渉の担当大使には求められる。
 外交界では協議や会食がよく夜遅くまで続くが、帰宅後は直ちに睡眠を確保することから、翌日の準備は始まる。
 心配事で眠れないという人には、懸案事項をノートに記し、翌朝とるべき手順を具体的に詳細に列挙する方法を勧めたい。脳の一部を紙に転写して、とりあえず頭を空にしてしまう感じである。

大使の車に乗るまで

  小学生のころ、父親の赴任先で外国の学校に通わなければならなかったとき、どうしたら英語での授業についていくことができるかを子供なりに試行錯誤し、毎朝、いくつかの文章を暗誦する方法が最も効果的なことに気づいた。次々と文章を丸暗記し、毎朝繰り返し暗誦していく方法だ。魔法のような効果があり、1年後にはクラスで全科目1位の成績をとった記憶がある。
 ジュネーブに軍縮大使として赴任したとき、多国間交渉で議長を務めたり、案文を取りまとめたりする積極的な軍縮外交を展開するには、自らの表現力を格段と向上させる必要があると感じた。困ったときに行きつくのは子供のころの記憶のテンプレートで、交渉にかかわる条約文や手続き規則を毎朝暗誦する、いわば朝稽古を続けてみた。
 朝は頭脳が活発なので確かに効き目があり、この1年間、小型武器軍縮のための国連会議の議長職、ジュネーブ軍縮会議の議長職、またそのすべてに伴う多くの諸国との連続的な舞台裏交渉に無事に対処し得たのも、ある程度はこのおかげかもしれない。
 とにかく相手がファイルを広げてページを繰っているのに対し、こちらは座るだけで口を突いて交渉内容が次々出てくるのは、当然ながら心理的にも有利である。
 大使の乗る車は館長車と呼ばれ、外交ナンバー1から始まる。その車についに8時過ぎに乗るまでに、1日の半分の努力は投じたと思えるほど、朝の時間は密度が高い。自分の戦略ノートと向き合ってその日のオペレーションを考え、段取りに優先順位をつけていくのも早朝だ。
 総司令部のある東京との時差は8時間。本省はすでにそのころ午後の佳境に入っているので、訓令や対処方針への詳細な説明を電話で受けるのもこの時間帯だ。
 一般に在外の大使は、各国の動きや利害を把握して確度の高い情報を本省に打電し、本省は全世界から集まる情報を基に方針を取り決め、重要度に応じ大臣までの決裁をとって訓令電報を交渉前線に立つ大使あてに打つ。
 本省の主管局長が交渉チームに入ることもあるが、局長は省内協議を推し進めて川口順子外務大臣―竹内行夫事務次官の決裁を仰ぐ重要なプレーヤーであるため、全省的なかかわりのある内容のときは国際交渉は大使が担当し、局長は省内の意思統一を調整する役割となる。国際交渉が成功するためには、主管局長によって代表される本省側と現場の大使との間の強い信頼関係が重要であり、主管局長は結果については大使を守る立場にあるだけに、過程においては大使の交渉姿勢に著しく厳しいコーチングを行う。

国益と軍縮の両立点

 晩秋の某日。通常兵器に関する新たな国際人道法条約交渉の最終局面。軍縮条約は国益の本質とも深くかかわるため、代表団は軍縮を取り扱う主管局を越えて条約局や地域局からも援軍や助言を受け、連日の交渉に臨む。この日も、本省との正念場のやりとりは、朝7時。
 「最後まで強気の姿勢と正攻法の迫力を崩さないことが大事です。日本の力を出しきったと言える交渉を展開することが必要なのです。落としどころを過早に探るようなことは絶対に差し控えてください」
 私の主管局長である天野之弥軍備管理・科学審議官の語気の強い声が電話口でビンビン響く。
 「これ以上は難しいです。妥協案をお願いします。私も力尽きそうです」。連日の緊迫感から主管局長にはつい弱音を吐く私。
 「全力を賭したとはまだ言えない段階です。国益と軍縮目的をなんとしても両立させるのが軍縮大使の任務であり、そのぎりぎりの交渉をすべきです」
 自分の中で、ピーク・パフォーマンスを目指す気持ちに再び火が灯されていく。
 「わかりました。必ずぎりぎりの地点を見極めます。高すぎる要求水準ですが、本省の命は絶対的なものとして全力を投じます」。受話器を置こうとすると、ようやく少しは優しい言葉が返ってきた。
 「決して一人で戦わせているわけではありません。竹内次官も直接、かかわっておら
れます。本省全体がついています」
 このような激しい朝の時間を経て館長車に乗り込むころ、私はどのような事態にも断固として対応する覚悟の、強靭な交渉官へと変貌している。
 それから数日後。7年ぶりの新たな多国間軍縮条約の案文を前にして、日本は新条約についての解釈演説を議場で堂々と行う。日本に対する対抗解釈の挑戦はなされるか否か、固唾を呑んで各国の発言に聞き入る。ない。日本の演説を支持する国はあっても日本に挑戦する国はなく、日本は条約交渉の仕上げにおいて重要な寄与をすることとなった。

会議の閉幕の合図とともに

 日本代表団長席から本省の天野軍備管理・科学審議官に万感の思いで電話する。
 「たった今、新たな国際人道法条約を採択して交渉会議は終了しました。日本の解釈を覆そうとする国はなく、本省の狙いどおり軍縮と国益のぎりぎりの両立点を世界に示したことは有意義な効果をもたらしました」 
 「まだ評価を行う段階ではありません。また、評価は慎重を要します。いずれにしろよくがんばってくれました」
 淡々としてブレることのない総司令部の言葉。甘さを排したその言葉を聞きながら、民間大使としての2年近い歳月の中で、真剣勝負を分かち合う仲間として本当の信頼を得たことを知る。

(フォーブス日本版04年2月号掲載)

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