「この人・この三冊」
2000年12月3日 毎日新聞朝刊掲載記事
上智大学法学部教授 猪口邦子氏
トクヴィル 『アメリカの民主政治』(A・トクヴィル著/井伊玄太郎訳/講談社学術文庫/上1150円、中1300円、下1600円) 『アンシャン・レジームと革命』 (A・トクヴィル著/井伊玄太郎訳/講談社学術文庫/1359円) 『トクヴィル伝』 (アンドレ・シャルダン著/大津真作訳/晶文社/8641円) |
世界で最初の持続的な近代民主主義は米国において成立した。英国の名誉革命やフランス革命の限界を見つめてきたヨーロッパ知識層にとって、彼方の旧植民地の実験的な国家システムこそ欧州の大国を超える政治発展の具現化であることは認めにくいことであったに違いない。それは真に自由で先入観にとらわれない精神の持ち主にのみできることであり、また若く、行動的で自分の眼で見たことしか信じない自信を持つ人が拓く知識の地平である。 フランスの名門貴族の生まれで政治家の子息として育ったアレクシス・ド・トクヴィルが米国こそ民主主義の手本であるという勇気あるテーゼを最初に展開したことは、旧体制(アンシャン・レジーム)とその文化の最良の部分には自由な知性を受け入れる精神の広がりが内在していたことを思わせる。トクヴィルは25歳で訪米し、民主主義の作用を精査して大著『アメリカの民主政治』を著すが、同年代の英国のJ・S・ミルはかつてこの水準で民主主義が記述されたことはないと言いきり、二人はやがて19世紀自由主義思想を拓く両輪を成していく。 トクヴィルはこの著作で政治制度の詳細な分析はもとより、民主主義がもたらす社会的、経済的、文化的変容も考察し、たとえば、貴族制では営利を求める労働は蔑視されが、「アメリカ人においてすべて誠実な職業は、尊敬されるべきものと思われている」と述べ、民主主義国の経済発展の関連を予期している。今日の米国の長期好況はトクヴィルの予想したアメリカの未来なのかもしれない。 彼は自由主義者として政界でも活動するが、ルイ=ナポレオンが皇帝となるとすべての公職を解かれ、執筆に没頭して今度は祖国の自由民主主義への道を展望しよともう一つの名著『アンシャン・レジームと革命』を病をおして書き上げて亡くなる。筆者の母校イェール大学のバイネッケ希少蔵書館に所蔵されるトクヴィルの手書き原稿の余白の推敲跡などをも含め今日でも彼の思想が競って研究されるのは、民主主義が人間社会にとって未完の、そして永久の革命であるにほかならない。トクヴィル評伝は多いが、クーネン=ウィターの邦訳は読みやすく的確なものである。 |