ナビゲート21世紀:「これからの(国家)」― 人間の安全保障
『毎日新聞』2000年5月8日夕刊掲載
猪口邦子(いのぐちくにこ・上智大学教授。国際政治学)
二一世紀の人間社会において、国家はどのように変容していくのであろうか。古くから、国家の基本的機能は秩序と安全保障の確保であった。従来、安全保障とは、当然のように同盟関係や戦略など国家安全保障(ナショナル・セキュリティー)の内容を意味したが、国家という単位では一応は安全は確保されていても、その国の中の個々の人間が、内戦、犯罪、飢餓や貧困、差別や抑圧、感染症や薬害、環境破壊、交通事故などさまざまな脅威の下にあることも少なくない。冷戦後の世界では、国家単位の安全と同様に、人間のレベルでの安全の達成を重視するという認識が高まり、国家安全保障の概念に対して、人間の安全保障(ヒューマン・セキュリティー)の概念が編み出されてきた。
これからの国家の最大の試練は、途上国のみならず先進国においても、国家安全保障はもとよりいかに実効性と信頼度の高い「人間の安全保障」を国民一人一人に提供できるかにある。そのためには、個々の人間存在への国家の思いをはるかに強化しなければならない。二〇世紀においては、国家はしばしば強者の拠り所として巧みに機能し、わが国でも官民癒着、軍産複合、公共事業の談合等々に指摘されるように、社会の中心的勢力への国家の思い入れが目立ったが、普通の市民の困ったときの確実な拠り所として、国家は信頼されていたであろうか。国の安全、企業や銀行など組織の安全という装置を介して、ようやく人間の安全に国家の関心が及ぶということも少なくなかったとしたら、二一世紀型国家への転換は人間の安全保障を国家の関心の根幹に据えなおすことから始まるであろう。
元来、このような人間一人一人の存在への強い思いは二〇世紀の民主主義の発展のなかで培養されるはずであったが、今世紀においては、第一次世界大戦、第二次世界大戦、東西冷戦というように大規模な大国間軍事対立が相次ぎ、七五年戦争(一九一四年の第一次世界大戦の勃発一九八九年の冷戦終結宣言までの七五年)とも欧米では呼ばれる独特の連続的で軍事的な期間が続いた。そのなかで、国家安全保障の重要性が国の運営において人間の安全保障の課題をクラウディング・アウトした観があったが、冷戦が終結して約一〇年たつ今日では、国家を単位とする安全のみでなく、人間個々人の生命と健康と能力がどこまで守られているか、という視点が国際社会でも強化されるようになった。
グローバリゼイションの進む世界においては、人間の安全保障を充実させ、危機に直面する人々の拠り所になろうとする活動主体は国家以外にも増えるであろう。NGO(非政府間組織)はもとよりそのような役割を自負して20世紀型国家の機能的不十分さに挑戦する形で成長してきた。またIGO(国際機関)の方も、かつては国際金融の安定など体制への視点が強かったのに対して、最近では国際システム上の問題に対応するための根本は、人間個人への視点であることに気づき、たとえば貧困削減(poverty reduction)がブレトンウッズ系諸機関の最優先課題に設定されるようになるなど変容しつつある。
国家は二一世紀には、人間の安全保障の推進力においてNGOや国際機関と競わなければならないであろう。たとえば環境問題で、国家が最も優れた対策を打ち出せなければ、NGOや国際機関が観測し、調査し、世論への働きかけを行い、国際会議への影響力を増加させ、やがて各国の専門家や市民の共感を獲得してより優れた政策への国家の同調を余儀なくしていくであろう。オゾン層保護のためのフロン全廃への政治過程にはそのような力学がすでに垣間見られた。二〇世紀においては主権国家はたとえ最善の政策を打ち出せなくても、国民はそれに甘んじるほかはなかった。二一世紀にはそのような国家に対しては、情報化によって専門的知識を国際社会と共有していく知識集約的な市民社会を背景にNGOと国際機関が政策を示し、国家は事実上、もはや政策決定者(decision maker)ではなく、政策受託者(decision taker)になりかねない。そうならないための唯一の方法は、国家が国民に対しても他国の支援においても、NGOや国際機関より人間の安全のための優れた政策能力を示すことにほかならない。
そのために国家はNGOとのパートナーシップを築くことも可能である。しかしそれが可能か否かは、従来よく指摘されたNGOの水準の改善によるというより、国家がプライオリティー(優先順位)を人間の安全保障の観点に転換できるか否かにかかっている。
グローバリゼイションのなかでこうして国家はその政策能力において競争力が問われることになるが、他方で、国家には国民の共有する歴史観や文化を深める固有の役割も求められていく。グローバリゼイションのすすむ二一世紀においてはさまざまなことが競われ、標準化されていくため、個性ある存在であることはひときわ貴重なこととなろう。個性とは当然ながら借りたり、買ったリ、真似て獲得できるものではない。個性は自ら歩んだ道からしか生まれず、経路依存(path-dependent)的な構成を成す。国家は国民の歩んだ道や慈しんできた文化の後衛であり、どのように時代が変動し、市民が国際社会に雄飛しようとも振り返ればそこに必ずあって人の個性の基層を成すであろう集団的経験と文化的蓄積を抱きとめている。グローバル化のなかですべてが高速化し、積極的に追い求めなければ消えうせるものが多い時代に、自国の文化は決して逃げ去ることはなく、だれにとってもいつでも振り向けば必ず存在し、疲れた翼を受け止めてくれよう。そのような文化の包容力と総合性を途絶えることなく未来の市民に贈り届ける役割は、第一義的には家庭や地域や社会が担っているとしても、最終的には国家こそが負っているのである。