第2回 半歩遅れの読書術
「学生に未来を学ぶ」

2000年10月8日 日本経済新聞朝刊 掲載記事


上智大学法学部教授 猪口邦子氏


Eメールで到着するニューヨークタイムズ書評欄は一般的な良書や話題の本を知るのに重宝だと先回 述べたが、人間の未来を考えるための最も重要な本を教えてくれるのは、コンピューターではなく、や はり人間である。しかもその不安な未来を住処とすることが明白な若い年齢層の読書人、すなわち学生 たちである。若い人の活字離れは、彼らがより多様なアンテナを張って未来に接近しようとしているか らであり、やがて彼らは高い感度の読み手となって本当に大事な本を選び出す作業へと回遊する。

 貧困でも民主制であれば飢餓は発生したことがない、という今では有名なアマルティア・センのテー ゼに研究室の学生が夢中になったのは、センがノーベル経済学賞を受賞するよりずっと前からのことで ある。貧困をなくすことは無理でも、根本的な優先課題である餓死の根絶は可能で、しかも鍵となるの は経済的要因より民主制という政治の変数である。貧困を論じた百の本より、この本は重い、と言って いた学生は『貧困と飢饉』(黒崎卓ほか訳、2000年、岩波書店)の出版を「やっと出ましたね」と いち早く教えてくれた。センはこの記念碑的書物において、今、海外でも話題となっている『自由と開 発経済』(石塚雅彦訳、同、日本経済新聞社)の基層を築いた。そこでは、故郷インドが英帝政下では 飢餓が慢性化していたにもかかわらず、民主化と自立を遂げると飢餓が消滅したことをヒントに、人は 生きるのに必要な食料を得る本質的権利と資格を等しく有するというエンタイトルメント(権原)の概 念を使っている。

   1996年にブルース・ラセット『パクス・デモクラティア』(鴨武彦訳、東京大学出版会)が翻訳 出版されたことを「これで皆が読めますね」と喜んでいち早く報じてくれたのも学生であった。この本 は、政治体制と戦争の関連を二国間の共有特性に着目して、民主主義国間不戦構造を実証した。199 3年に出版されて以来、冷戦後の米国外交における民主化支援策の理論的支柱となっている。ちなみに よくあることだが、ニューヨークタイムズはこの重大な本を書評し損なっている。学生たちが共鳴する 本をめくっていると、彼らの民主主義への思いの深さを改めて知るのであり、民主主義との関連で希求 されなければならない平和や発展の課題が迫ってくる。そして表層を漂うかに見えるいまどきの若者が ときとしてこのように放つ良心の輝きの深さに、戦後日本の自由と発展の成功を見る思いがする。