政治学事典(執筆担当分)


戦争 戦争循環論 民主的平和論
平和 ブルース・ラセット 開発と女性
女性のエンパワーメント1 リプロダクティブ・ヘルス/リプロダクティブ・ライツ 女性のエンパワーメント2
単極システム1 国際政策協調 政策協調
先進国首脳会議 コンドラチェフの長波 覇権国
覇権サイクル論 大国 バイゲモニー
二極システム 二極安定論 多極システム
多極安定論 単極システム2  



<戦争>

人間社会に生起するさまざまな暴力的衝突のなかから、戦争を区別する場合、少なくとも当事者の一方は国家であり、戦闘が組織的かつ持続的に展開されていることを基準とするのが一般的である。すなわち戦争の主体は基本的には国家であって、戦争の特殊な形態である内戦においてさえも、政権奪取を狙う諸集団が互いに競い合いながら公権力と対峙する以上、国家はやはり戦いの中心軸を成している。戦争とは実に国家の、国家による、国家のための武力対立を特徴とする暴力の発現形態であると言えよう。 従って戦争の規模は近代国家の形成と発展とともに拡大してきたのであった。近代初頭の「ヨーロッパ大戦」とも称される30年戦争(1618-1648)は新教・旧教の対立と絡んでヨーロッパ社会を根底から揺さぶり、宗教的権威の秩序維持機能の破綻を明確にしたため、その講和条約であるウエストファリア条約は領邦国家に至高の権力としての主権を認める近代主権国家中心システム(Staaten system)=西欧国家体系を生み出すことになった。国家はついに内外に対する暴力装置を独占するという点であらゆる他の社会組織から区別される主体へと成り上がり、「国家が戦争から生まれたとしても、今度は逆に国家が戦争を生む」(R・カイヨワ)という関係のなかで近代は始まる。

 前近代においては傭兵が多用されたが、近代国家は常備軍とそれを徴税によりファイナンスして管理する官僚制を搭載し、また大砲の性能改善や実戦配備など破壊力の拡大を系統的に試みる軍拡国家にもなっていく。ナポレオン戦(1815)では、ナショナリズムの高揚感によって一般兵役義務に基づく国民軍の形成が可能となり、徴兵制でのみ可能な兵数が前線に投入された。ナショナリズムで精神武装した侵略が、被侵略者の側のさらに強い抵抗のナショナリズムを呼び起こしたことからフランスの敗北に終わったその戦争から約一世紀後、第一世界大戦は、前線の兵士のみでなく後方体制を含む全国民の総力を結集して戦う総力戦(E・ルーデンドルフ)となった。さらに、第二次世界大戦で核兵器が実戦使用されるに至って戦争の形態は極限的な様相を示した。第二次大戦中の核開発が主要連合国ソ連に対して秘密裡になされたことからアングロアメリカとの亀裂は決定的となり、戦後の米ソ冷戦が発生する。両超大国同士が直接に戦争を行うことはなかったが、核軍拡競争によって地球人口を過剰殺戮(overkill)できるほどの核戦力が配備され、第三世界では数多くの代理戦争が発生した。

第二次大戦後、百を超える武力紛争が発生し、その犠牲者は2千万人を超える。かつて30年戦争がヨーロッパ世界を揺るがしたのは、少なくとも中世以降、始めて兵士より農民の犠牲の多い戦争を見たからである。冷戦期の戦争はベトナム戦争中の農村焼き討ちに見るように常に非武装市民の犠牲の方が多く、近年の戦争ではその割合は95%を超える。 戦争の趨勢を最初に系統的に分析したQ・ライトは、戦争規模の長期拡大傾向を明らかにした。一七世紀においては城砦包囲攻撃を除くと、96%の作戦活動が一日以内で終わっていた。その割合は一八世紀には93%、19世紀には84%となり、二〇世紀前半には40%以下となり、空襲などによる一日の破壊力を激増にもかかわらず作戦行動の長期化が進んだ。戦争における戦闘の数の平均は一六世紀には1回か2回であり、一七世紀には四回、一九世紀には二〇回、二〇世紀には六〇回をこえた。動員の規模でみると、一七世紀ヨーロッパでは古代ローマ帝国の場合と同様、人口千人あたり3人が兵士という動員率で、ナポレオン戦争ではフランスの人口の5%が、第一次大戦では一四%が動員されるに至った。 なお、戦争犠牲の歴史統計の扱いは困難な面が多いが、記録された戦死の規模を見ると、人口が飛躍的に増大すれば戦死も増えるとしても、有史以来、一九世紀末までの戦死者数の総和を二〇世紀の戦死の規模は超えている。参考文献:猪口邦子『戦争と平和』、東京大学出版会)
 

<戦争循環論>

すべての戦争には固有の原因があるが、これほど反復的に見られる大規模な破壊現象の発生には一定のパターンがあるのではないかという観点から多くの研究がなされてきた。戦争は人間社会に多大な負担をかけるために、大局的にみると経済に余力があるときに発生しやすいと推測される。Q・ライトは戦争が発生しやすかったのはもともと自然の実りの豊かなときで、戦争の季節循環を指摘している。ライトによれば中世ヨーロッパでは戦争の9割が4月から11月の間に発生している。17世紀にはその割合が87%に、19世紀には78%に下がっているが、実際には近代においても動員、輸送、補給の問題に関連すると思われる戦役開始の季節分散は偶然とは言いがたい偏りを示している。

 経済余力との関連ではN・コンドラチェフ(⇒長波)は産業革命以降の急速な経済発展のなかで、大規模な戦争は経済循環との関連で50年周期の長波の上昇期の最終段階において発生しやすいことを指摘した。長波の第一波の頂点ではナポレオン戦争が、第二波の上昇期にはクリミア戦争や北米史上最大の戦争である南北戦争が、第三波の頂点には最初の総力戦としての第一次世界大戦が発生している。コンドラチェフの経済/戦争循環論を戦死統計の詳細分析によって完成させたJ・ゴールドスタインは、経済の拡張期に戦争が発生しやすい理由を、@市場の拡大や資源調達で競争が激化しやすい、A繁栄により軍事支出が可能となる、B繁栄により強気の心理が醸成されやすい、などと指摘した上で、景気の中期循環も組み込んで経済局面を特定し、大国間の戦争の年平均戦死者数は17世紀以降は一貫して上昇期に増大し、下降期に低下することを示した。19世紀までのデータでは上昇期の戦死は下降期の約6倍であり、戦死者が激増する20世紀も含めると約21倍にもなる。

 経済循環との関連では、I・ウォラスティンの覇権循環論(⇒覇権サイクル論)も戦争循環論としてとらえることもできる。ウォラスティンは中心―周辺の構造とその変化を経済の長期波動の上昇期・下降期に相当するA局面・B局面という循環的要素との関連で論じ、サイクルのA1は覇権への躍進期、B1は覇権の確立期、A1は覇権の成熟期、B2は覇権の衰退期として、覇権的優越がやがて激しい競争状況へと解体しおける覇者と新興勢力との間における覇権攻防戦の循環を論じていた。

 より一般的には、戦争循環論の古典としてA・トインビーの戦争=平和循環説がある。トインビーは『歴史の研究』でさまざまな文明に共通する発生genesis、成長growth、衰退breakdown、解体disintegration の法則を指摘して循環論的史観を提示し、戦争の周期についても16世紀以降、「前兆戦争」Premonitory Wars, 「全面戦争」The General War、「小康期」The Breathing-space、「補完戦争」Supplementary Wars、「全面平和」The General Peaceのサイクルの存在を指摘し、その周期を約115年とした。 またQ・ライトも第二次世界大戦中に刊行された大著『戦争の研究』で、18世紀以降、戦争が集中的に発生する時期が約五〇年ごとにめぐってきたと論じ、その集中期を、@スペイン戦争(1701−14)、 A七年戦争(1756−63)、Bナポレオン戦争(1795−1815)、Cクリミア戦争(1853−56)から普仏戦争(1870−71)までの時期、D世界大戦(1914−45)、としている。とりわけ@、B、Dの時期の戦争の集中が激しかったとして、百年サイクル説を示唆した。 ライトはまた戦争の周期性を人間社会の最も根本的なサイクルである世代交代にも結び付け、兵士は二度と戦いたくないと思い、その感情は息子の戦争観に作用するが、孫の代には戦争は美化して伝えられ、戦争への社会動員が不可能ではなくという。
 

<民主的平和論>

民主的な国家がより平和的であるとは限らないが、民主主義国同士が互いに戦うことはほとんどない、という仮説。democratic peace, liberal peace, Kantian peace などの表現で論じられる。エール大学のB・ラセットらによって実証され、冷戦後の米国外交の重点政策である民主化支援の理論的支柱を成した。その特質は、民主主義という政治体制の要因を個体=国家の属性として戦争/平和と関連づけようとしたのではなく、ダイアッド(二国間)における共有属性として戦争/平和に関連づけた点にある。すなわちダイアッドの双方がより民主的であれば、両国間の戦争蓋然性は減少し、また発生した武力紛争もエスカレーションを遂げにくく、この効果は経済力、成長率、同盟関係、軍事力の差など一般的に戦争志向性を左右すると想定される変数の状態にかかわらず存在することを多変量解析により検証し、民主主義国家間不戦構造が歴史的にも現在も存在することを明らかにした。若干の不明瞭なケースは、たとえば米西戦争(1898)や第二次大戦中のフィンランドと連合国(1941)など、あるが、民主主義国同士は戦わず、の仮説はかなりの精度で実証されといえよう。

 この理論がカント的平和論とも呼ばれるのは、1975年に刊行された『永久平和のために』のなかで、I・カントは民主的な共和国が互いに作る平和的連合を論じ、最初に民主主義国間の不戦を指摘したからである。 民主的平和論の重大な問題点は、民主化が進めば国際平和が推進されとと考えられがちであるが、民主化した国は民主主義国とは戦わないとしても、非民主国に対する好戦性を高める危険性はないか、またその結果としてダイアッドの平和がときとして国際システムの戦争過重につながる危険性はないか、という点にある。民主化によるナショナリズや優越感の高まり、あるいは一時的な経済不安によって近隣の非民主国への攻撃性が増すような危険性をいかに防ぐかは民主化支援における新たな課題であろう。
(参考文献 ブルース・ラセット『パクス・デモクラティアー冷戦後世界への原理』鴨武彦訳、東京大学出版会、1996年)
 

<平和>

戦争を、少なくとも当事者の一方は国家であり、戦闘が組織的かつ持続的に展開されている状態(⇒戦争)と定義し、そのような状態が発生していなければ平和であるという見方もある。しかしそれはあまりにも狭義の平和であり、現代社会の平和の課題の本質を捉えていることにはならない。戦争の不在というだけでなく、人間を脅かすさまざまな剥奪や暴力の防止も平和の課題とする積極的な平和論に対して、それは消極的平和と平和研究の分野で呼ばれたこともある。 冷戦期についてさえ、R・アロンは「戦争は起こりそうもなく、平和は不可能である」という見事な表現でその武力対立の本質を言い当てつつ、平和とは戦争が起こらないというだけで実現するものではないことを論じた。他方で、J・ガディスのいわゆる「長い平和」論のように、核軍拡や地域紛争があっても超大国間は均衡ゆえに熱戦化は免れて平和はあったという平和観もある。

 冷戦後の世界ではさまざまな民族対立や部族間闘争が表面化し、根深く長期化する内戦も少なくない。ジェノサイドを思わせる民族単位の殺戮や多様な暴力行為もある。民族的弾圧からの逃走としての大規模な難民化現象も発生しており、伝統的な意味での戦争状態ではないとしても、また外国の軍隊の公然とした介入などはない場合でも、明らかに平和ではない状態も見られる。平和とは、国家を単位として捉える概念ばかりでなく、暴力や剥奪からの自由を個々の人間を単位に実現した状態を示す概念でなければならないという認識は一層強くなっている。同様の観点から冷戦後の世界では安全保障論においても、伝統的な国家安全保障(national security)のみでなく、平和な国家の内部における個々の人間の安全確保の失敗に対応しなければならないという主張を込めて人間の安全保障(human security)の概念も発展してきた。平和を回復したはずの国家のなかで、放置された対人地雷の被害などはもとより、テロ、犯罪、飢餓、環境破壊、健康被害、栄養失調、感染症、貧困、失業、差別、抑圧、教育の剥奪など個々の人間に直接的に襲いかかる暴力や脅威があまりにも大きいことがある。国家のみでなく、人間のレベルの平和の実現に焦点を当てた課題の設定が必要とされる所以である。

このような平和観の源流には平和研究の領域で追求されたされたさまざまな概念があった。非平和状況peacelessness の概念によって、戦争がなくてもピースレスな状況はあり、国家安全保障論が平和論と同義ではありえないという指摘がなされた。またJ・ガルトゥングは構造的暴力structural violenceの概念をもって、人間を襲うのは銃弾のような直接的暴力のみではなく、社会的暴力もあるという視点を先鋭化し、それを、生命と人権が保障された本来あるべき状態からの実体の乖離としてとらえ、歪んだ社会構造や不当な権力の発動に起因する剥奪状況を総合した。
 

<ブルース・ラセット>
 
 北米を代表する国際政治学者。エール大学政治学部教授。行動科学的手法を国際政治分析に取り入れ、外交史や評論が中心であったこの分野に社会科学としての理論志向性と実証主義をもたらした。行動科学分析による平和科学の先端学術誌Journal of Conflict Resolutionの編集長を長年務める。戦争と平和の理論と実証分析で知られ、冷戦期には軍拡の不合理性に関する理論分析が注目された。冷戦後の国際社会を展望して1993年に発表したGrasping the Democratic Peace: Principles for a Post-Cold War World (Princeton, NJ: Princeton University Press)においては民主主義国間不戦構造の実証に成功し、カント流のその民主的平和論は政策的にも影響が大きく、米政府の民主化支援策の理論的支柱となった。夫人はエール大学の歴史家。4児の父。
 

<開発と女性>

 Women in Development(WID)の邦訳で、開発援助における女性の参画と役割の重要性を認識し、開発援助が男性ばかりに利益をもたらすのではなく、女性も開発の担い手として発展できるように留意して開発におけるジェンダー格差を克服しようという考えに基づき政策面で導入された概念。1983年にOECD(経済開発協力機構)/DAC(開発援助委員会)がWID指針を採択したことから取り組みが広がり、各国各機関の開発政策に広く取り入れられた。女性のニーズを重視するという観点は有意義ではあったが、結果的には女性の家庭とその周辺での役割を前提にプログラムが組まれることが多くなったことから、近年では、経済社会への女性の広範な参画を支援し、開発における男女の共同の役割と責任をより重視するGAD(Gender and Development)アプローチへと転換されつつある。
 

<女性のエンパワ−メント1>

 女性自らの能力を開発し、新しい社会づくりの主体としての力をつけること。女性が自らの意識と能力を高め、政治的、経済的、社会的及び文化的に力をつけること。第4回世界女性会議の主要課題であり、採択された「行動綱領」は、女性のエンパワーメントに関する予定表であるとされている。
 
 
<リプロダクティブ・ヘルス/リプロダクティブ・ライツ>

 性と生殖に関する健康と権利と訳され、1994年にカイロで開催された国際人口・開発会議において提唱された概念。個人の、とくに女性の健康と性生活についての自己決定権を保障する考え方で、健康とは病気ではないという狭義の概念より積極的な意味をもち、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを含む。リプロダクティブ・ライツは、それをすべての人の基本的人権として位置づける理念である。リプロダクティブ・ヘルス/ライツの中心課題には、安全な性生活、妊娠、出産に関することはもとより、思春期から更年期、高齢期までの女性の生涯を通じた健康支援や、HIV/エイズなど性感染症予防/対策が含まれる。またセクシュアル・ハラスメントを含む女性へのさまざまな暴力の防止対策も緊急の課題であり、女性2000年会議など世界会議においても各国の取り組みの前進が問われてきた。
 

<女性のエンパワーメント2>
 
 女性自らの意識と能力を高め、政治的、経済的、社会的及び文化的に力量をつけ、意思決定に参画し、実権を獲得し、地位向上を目指すことなどを広く包含する概念で、ジェンダーメインストリーミングと合わせて男女平等推進の基礎をなす考え方。女児の就学機会の確保や人間開発、高等教育へのアクセス、雇用や起業における差別の撤廃、議員や閣僚の女性割合の向上など、国情によりさまざまな改善目標がある。第4回世界女性会議の主要課題となり、さまざまな社会の多様な課題を相互に関連づけることを可能にする共通の優れた概念として注目された。UNDP(国連開発計画)は、人間開発指標におけるジェンダー格差を指標化したジェンダー開発指標(GDI)のほかに、女性が政治にかかわることや専門的な知識や機会を得ること、さらに稼ぐ能力などを表す3つの変数に焦点をおいたジェンダーエンパワーメン測定(GEM)を開発してランキングを毎年公表するなど、各国がこの問題の改善に優先的に取り組むようさまざまな努力が国際的になされるようになった。
  

<単極システム1>

 中心性と求心力のある勢力が単数の国際システム。冷戦期の双極構造がソ連邦の崩壊により終結したのち、米国は軍拡予算の見直しと民需重視の「平和の配当」を通じて国内経済の立て直しを行い、コンピュータネットワークなどを軸とするニューエコノミーを先導して史上最長の好況を実現した。これを実質的に単極に近い国際構造と見ることもできなくはないが、冷戦後の国際政治については極構造という静的な図式でとらえること自体が適切ではない。むしろさまざまな協議体が派生し、複合的で重層的なネットワークが能動的に連続的に発展していくなかで、米国は最も多くの場面に参加してリードする能力を有する国家として特徴づけることができ、ポスト極構造のシステム論が必要である。なお、伝統的には国際体系論の先駆者M・カプランが6種の国際体系の類型を概念化したが、単極システムはそのうちの階層型体系(hierarchical system)、すなわち世界が強者によって高度に統合されるシステム、に近い概念。
 

<国際政策協調>

 狭義の政策協調は、主として通貨の適正水準を求める為替市場への協調介入や公定歩合の協調利下げなどを意味する(政策協調の項目参照)。他方で、相互依存が拡大し、また環境問題など地球的規模の対応が必要になるなかで、他の政策についても国際的に連動させなければ効果があがりにくいことが認識されるようになり、広い意味で国家間で政策を共同実施したり連携することを意味するようになった。先進国首脳会談などのレベルで共通の問題認識やプライオリティーについての合意がなされた後に各種の専門会議で実施への協議が重ねられる。条約の形式や国際レジームの形成などに至らなくても、政策の微調整を重ねながら成果をあげようとする場合も少なくない。金融、貿易、投資、環境分野のほかにも、課税、技術仕様の標準化、途上国支援、各種の社会政策にも広がる可能性がある。
 

<政策協調>

 通貨の適正水準を求めるための為替市場への協調介入、公定歩合の協調利下げ、財政政策の連動などを含み、さらに、経常収支、財政収支、成長率、インフレ率、失業率、など基礎的経済条件(ファンダメンタルズ)の相互監視(サーベイランス)や連動的改善を指す。本格化するのは1985年9月のG5(米国、英国、西ドイツ、フランス、日本の五カ国蔵相会議)のプラザ合意によるドル高是正への協調介入から。このとき、主要通貨当局は総額一八〇億ドルを上回るとも言われた市場介入でドル安を誘導して米国の輸出力回復を助け、世界経済の不安定要因のひとつと懸念された米貿易赤字問題の緩和に協力した。続いて翌年にはドル高の最大の原因であった米国の金利高を是正するにあたってドルの暴落を防ぐために米国以外のG5諸国も米国の利下げとともに一斉に協調利下げを実施した。また1987年になると今度はドル高の行き過ぎを是正するためのルーブル合意による協調介入がなされる。このように、主要通貨国は変動相場制下における通貨の乱高下を防いで国際金融市場への信頼をつなぎとめる協調の経験を積むようになっていく。暴落が懸念される通貨を買い支えたり、高騰する通貨を市場を通じて手放したり、すでに金利安であるにもかかわらずさらなる協調利下げを実施したりすることは短期的な国益には反するかもしれないが、相互依存の深まる世界経済において、国際金融不安を回避することの重要性への認識が主要国間で共有されるようになったことが政策協調を可能にしている。また当初は隠密裡に大掛かりになされた政策協調も、やがて機敏で連続的な協調プロセスになっていく。
 

<先進国首脳会議>

 1975年以来毎年開催されている主要先進国の多国間首脳会談。もともとは第1次石油危機に続く戦後最大の不況や、固定相場制を支えたブレトンウッズ体制崩壊後の世界経済の全般的は不安感に対して、とりあえず主要先進国の首脳が素直に意見交換をしようという、ジスカール・デスタン仏大統領の呼びかけで、米国、英国、フランス、西ドイツ、イタリア、日本の6ヶ国の首脳がランブイエの古城に参集したことに始まる。その後は提唱者の予想をこえて定例化し、また当初は冷戦下であったために西側内の意見のずれを露呈させないようにとの計算から経済問題に限定して討議する場(当初は経済サミットと呼ばれた)として発足したが、やがて広く政治問題も取り扱う包括的な協議の場へと発展した。参加国は持ち回りで議長国を務める。メンバーは七六年にカナダが入り、第3回目からはEC代表も加わって7カ国8代表で構成されるようになる。冷戦終結後にはロシアが関連の会談に参加したり、政治討議に加わるようになってG7+1方式とも呼ばれたが、2000年の沖縄サミットからはG8サミットと呼ばれようになった。

 サミットは国際社会の直面する重大な諸問題について迅速に先見的に認識を形成し、対応への合意を仕掛ける場となってきたが、それを可能にした特質の一つは、常設の事務局を設けずに、サミット=頂上への首脳の登頂を手伝うという意味で「シェルパ」と称する首脳の個人代表がときの重要課題について柔軟に準備と調整を行っていく方式にある。また、サミットは単独で成立しているわけではなく、その前哨戦とも言われる経済協力開発機構(OECD)の閣僚理事会など各種の下位の多国間協議体との連携によって合意の実効性を補強している。またサミットの開催に間に合わせるように各国が国内で必要な政策を推進するなど、政府なき国際社会における各国の協調的な問題対応能力を生み出す契機を提供している面もある。
 

<コンドラチェフの長波>

 ロシアの経済学者N・コンドラチェフが一九二〇年代に、英国、フランス、アメリカなどの卸売り物価指数、公債価格、賃金、輸出入額、石炭・鉄鋼生産量の長期時系列データを分析して発見した約五〇年の周期の景気循環。景気循環のなかで最も周期が長く、以下のような経験則が指摘された。(1)上昇期には公共の年数が、下降器には不況の年数が規則的に優位を占める。(2)長波の下降器には農業が長く低迷する。(3)長波の下降器には多くの生産・交通技術上の発見や発明がなされるが、広範に応用されるようになるのは次の長波の上昇期においてである。(4)長波の上昇期のはじめには金産出高が増大し、世界市場が拡大する。(5)長波の上昇期には戦争や社会的動揺が多発し、激化する。
より一般的にまとめると、資源、技術革新、マネー・サプライ、戦争や内乱、の四つの要因が絡み合うなかで生起する約半世紀単位の経済循環。経済循環と戦争など大規模な政治現象との連関を示したことから今日でも広く研究されている。
 

<覇権国>

 覇権の概念の現代的な含意の起源は、国家が支配階級の文化覇権の道具と化すことを指摘したA・グラムシの『獄中ノート』であり、この語彙は確かに、巨大権力の搾取的、抑圧的性質を暗示するニュアンスを含んでいる。国際政治理論で覇権国という場合には、軍事力、政治力、経済力、文化的影響力など総合国力において圧倒的に優越し、他国との力量の乖離を前提に国際社会に秩序=国際公共財(たとえば、自由貿易体制や国際金融の安定性)を供給する国家をイメージする。またそのような国家が統括する国際システムを覇権システムとも呼ぶ。第二次大戦後のパックス・アメリカーナ(Pax Americana)はその典型であり、19世紀の大英帝国もそのような勢力であったとする見方もある。なおpaxの語源はラテン語のpaciscorで契約を結ぶ=秩序に合意するという語彙であることから、秩序=平和の維持は覇権国の責務と考えられる。
 

<覇権サイクル論(覇権循環論)>
 
 国際システムは、覇権国が十分な力の格差をその他の諸国と維持して秩序を統括するとき最も安定するという見方を、覇権安定論(hegemonic stability theory)と呼ぶ。覇権国は、自らが有利なように秩序を設計するであろうが、その支配は拡大しがちで、時間の経過とともに秩序維持のコストは利益を上回るようになり、秩序にただ乗りして発展する国の追い上げを受けることになる。このように覇権の長期安定は不可能であり、大規模な戦争が覇権衰退期の最終局面で次代の覇権を狙う勢力との衝突から発生することが多い。R・ギルピンやG・モデルスキーはそのような挑戦国(challenger)の躍進で力関係の不安定化や非正統化が進んで覇権攻防戦が展開し、新たな覇権国の下で安定化、追い上げ、不安定化、覇権戦争という新循環が始まると論じた。またI・ウォラスティンはコンドラチェフの長波2回を周期とする約一世紀の単位で覇権は循環すると論じた。
 

<大国>

 近代国家を構成する基本要素は人口、領土、政府、主権とされ(フランケル)、近代国際システムは、そのような要素を有する国家による主権平等の原則を前提としている。他方で、軍事力、経済力、政治力、あるいは学術・文化の影響力など国家間の関係性における能力は国ごとに著しく異なり、そのような能力において圧倒的に優越する国を大国と呼ぶ。人口や領土が格別に大きい場合は政治面、軍事面、資源面などの影響力につながりうる。また領土や人口が平均的であっても、重要な資源を有していたり、生産性や外交力が傑出していれば大国の存在感を示す場合もあろう。G・モデルスキーは、覇権循環論との関連で世界的な大国の条件として、第一に、安全保障の観点から地理的に有利な「安全保障の余剰」(surplus security)を有する島国、半島、離れた大陸であること、第二に、海軍力や空軍力において、世界の半分以上を集中的に管理していること、第三に、技術革新など総合的な経済の突破力を有する「主導経済」(lead economy)であることを挙げている。
 
 
<バイゲモニー>

 ヘゲモニー(hegemony) と二カ国(bi-)を合わせた造語。日米両国で世界経済と国際金融の安定を主導しようという見方で、米国の経済学者などによって円高時代の到来で唱えられた。背後には、ベトナム敗戦や石油危機などを契機に一九七〇年代半ばからパックス・アメリカーナの国際体制が揺らぎ始めたという認識があり、一国では秩序を支えきれなくても世界の2大経済が協力して責任を果たせば安定を実現できるという考えで、一大強国が国際秩序の負担をほぼ単独負担する覇権システムの変形版。円ドル体制とも呼ばれた。その後、EU(欧州連合)がユーロ導入に踏み切って存在感を示し、他方で日本経済がバブル崩壊と長期不況で低迷するなかで用いられなくなった。またコンピュータネットワークを基層とするニューエコノミーで米国の主導性が回復しているが、国際体制はオールドエコノミーと対を成した覇権システムに舞い戻るわけではなく、多国間協議体のネットワークの生成が見られる。
 

<二極システム>

 二極システムとは、第二次大戦後の米ソ冷戦状況のように、国際社会が二大勢力の対立で二分化され、他の諸国もいずれかの陣営にほぼ吸収され対峙している国際構造を意味する。古くはアテナイの率いるデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟の対立の構図にその典型をみることができる。二極システムでは、その単純な対立構図と先鋭化する亀裂ゆえに軍拡競争が進みやすく、冷戦は核兵器の過剰蓄積による「恐怖の均衡」を国際社会にもたらした。他方で双極化においてはその緊張感ゆえにバランスと慎重さが維持されるという見方もある。国際体系の分類で名高いM・カプランは、二極体制を、非同盟国や中立国も消滅する強固な型とより穏やかな型に分け、強固な二極構造は実現したことがないとしている。
 

<二極安定論>
 
 東西冷戦のような二極体制は、多極構造より安定性が高いか否か。より平和的であるのはどちらかをめぐるいわゆる多極化―双極化論争は明白な結論を得るには至っていない。冷戦期によく参照事例として引用されたアテナイとスパルタの対立は、結果的には破滅的なペロポネソス戦争(前四三一―四〇四年)に至り、ポリス全盛時代の終焉をもたらした。冷戦期の安定性については、両超大国間の独特の共通の利害から冷戦期には「長い平和」(long peace)が成立したというJ・ガディスの見方が有名である。リアリズムの観点からK・ウォルツは、主要勢力の数が増えればそれだけ国際関係における不確定性が増え、敵対関係の先鋭化を防ぐというよりも誤算や不注意な対応の可能性を高めるだけであるとして、双極化によってこそ国際体系は安定すると論じ、多極間の相互依存の拡大による平和を描くリベラリズムの説に反論した。
 

<多極システム>

 多極システムとは、求心性のある比較的似通った水準の勢力が3極以上を構成する国際状況を意味する。冷戦期の軍事的な二極構造に対して、一九七〇年代になると欧州と日本の経済力が注目され、経済面では3極構造が指摘されるようになり、脱冷戦への展望も含めて多極型経済的相互依存の世界観が広まった。また軍事的には二極で、経済的には多極の折衷的な双極・多極型(bi-multipolarity)もR・ローズクランスらによって概念化された。多極システムとしては、一九世紀ウィーン体制下の勢力均衡体制や、戦間期の国際状況も軍事力の分散による一種の多極化構造であったと見ることもできる。
 

<多極安定論>

 K・ドイチェをはじめリベラリズムの立場をとる国際政治学者は、一九六〇年代半ばに早くも経済力を含む多極化の進展を肯定する観点から、多極化の方が双極型の場合より国際体系は安定すると論じた。多極化の場合の方が国家間の相互作用が複雑で重層的になるために利害関係が単純に対立したり、一枚岩的な対決に陥る可能性が低くなり、また相互作用の機会も増えて敵対意識の先鋭化が緩和されることが指摘された。双極型と多極型のどちらが平和的であるかをめぐる論争は戦争についての系統的な実証研究が試みられる契機ともなった。M・ウォラスは一八一五年以降の長い期間についての戦争発生と極構造の解析の結果、双極多極のいずれでもない中間的な場合が比較的に平和的であるという非線形的関係を指摘し、またB・ブエノ・デ・メスキータは、極の数そのものは戦争確立と無関係で、戦争生起に関係するのは極やクラスターの数ではなくその強度の変化、すなわち各極内の同盟関係などが強化されていく度合いであることを実証した。
 

<単極システム2>

 国際政治における中心性と求心力のある勢力が単数のシステム。冷戦期の双極構造がソ連邦の崩壊により終結したのち、米国は軍拡予算の見直しと民需重視の「平和の配当」を通じて国内経済改革を行い、コンピュータネットワークなどを軸とするニューエコノミーを先導することにより史上最長の好況を実現した。これを実質的に単極に近い国際構造と見ることもできなくはないが、冷戦後の国際政治については極構造という静的な図式でとらえることそのものが適切ではない。むしろさまざまな協議体が派生し、複合的で重層的なネットワークが能動的に連続的に発展していくなかで、米国は最も多くの場面に参加しリードする能力を有する国家であり、ポスト極構造のシステム論が必要である。なお、伝統的には国際体系論の先駆者M・カプランが6種の国際体系の類型を概念化したが、単極システムはそのうちの階層型体系(hierarchical system)、すなわち世界が強者によって高度に統合されるシステム、に理念的には近いと思われる。