アラン・コルバン『レジャーの誕生』渡辺響子訳(藤原書店)

2000年9月5日 『東京人』書評欄掲載記事  




上智大学法学部教授 猪口邦子氏  

   「完全な男女を作るためには、余暇と、独立した地位とが必要である」と19世紀半ばのフランスで は言われた。19世紀半ばは、産業革命と結びついた労働形態が再調整に入る時期であり、労働力の社 会的動員が進む一方で、時間の社会的配分も進み、労働と非労働の時空の区分が明らかになっていく 時期である。余暇は単なる空いている時間le loisirから、複数形で表現されるle loisirsとなり、 意味もより計画的で能動的なものとなる。ただの空いている時間であればどの人のも似通っていて単 数で捉えられるとしても、自分のために計画された自由な時間となると各人の才覚によってその内容 は異なるのでレジャーは複数形の語彙とな産業革命が組織化された労働時間を通じて没個性的な労働 の単位としての自己観を要求したために、自分と向き合って自己を再生させる時間も意識化され、そ れはもはや漫然と経過する空いた時間で はなく、意欲的に計画されるものとなっていく。

産業革命は同時にその意欲的な計画を人々が実行す る画期的な手段、すなわち鉄道を提供するのであり、19世紀半ばの鉄道の普及によって、自宅で過 ごす空いた時間としての古い余暇から近代に似つかわしく計画されたバカンスへと自由時間は変貌し たと、という指摘はすごい。鉄道の普及は国民経済の統合を促進し、また兵士の動員が容易になって 戦争の大規模化につながった、と通史では習うのだが、古い歴史も分析者の眼が冴えていればいつも 新しく再発見できることを本書は教えてくれる。夏休みを終えて労働に戻るいま、自分と向き合うた めにも読んでみると面白い一冊である。  ただし、近くにいいカフェでも探して、せめてそこに出かけて読む。「自分の家で生きること、自 分の家で考えること、自分の家で飲み食いすること、自分の家で愛すること、自分の家で苦しむこと 、自分の家で死ぬこと、これはみな退屈で、具合の悪いことだとわれわれは考える。われわれには、 公共性(ピュブリシテ)が、真昼の日差しが、通りが、酒場が、カフェが、レストランが必要なのだ」 と第二帝政下のパリの知識人は記している。

 街には自由時間のプログラムを提供するさまざまなアリ ーナが出現する。イギリスでも1852年に初のミュージック・ホールが開かれた。パリのキャバレー 「ムーラン・ルージュ」は1889年に始まるが、初日からロートレックが専用の席を予約していたと いう話は、特殊な才人の逸話ではなく、近代産業社会の市民生活の記録に残った部分として分析する べきであろう。人は街のリズムとコースを楽しむことに積極的になっていく。産業革命は製造業を業 態としては生み出したが、意図せざる結果として、人に自由時間の充実を与えるサービス業も生み出 し、その隆盛はオールド・エコノミーが衰退しつつある今日でも、インターネットカフェの林立する ニューエコノミーへと宿主を変えながら続いている。

   街に出て自由時間を楽しむのと並んで、豊かな人々は鉄道で出かけることの魅力を発見する。「休 暇に出かけるということは、生産的な労働の、最初と最後をリズムづける時計の時間を転倒すること」 なのであり、高級ホテルや豪華列車、豪華客船が流行る時代となる。不慣れな遠方に出かけるとなる と案内書が必要となり、19世紀前半には最初の観光ガイドブックが登場する。また鉄道での旅は高 度な計画性を要したので、計画業務を代替して旅を楽にするビジネス、すなわちパック旅行がトーマ ス・クックの先駆的な事業によって流行し、さらに団体旅行は旅行の単価を下げることになったので、 いよいよ大勢の人が旅することになる。そこで、大勢の人の年間予定を支配する子供の学校問題が出 てくる。以前、学校には二種類の休みの時期があった。宗教的祝祭の時期と大勢の欠席者の出る畑仕 事の繁忙期である。学校の休業が教会と農業から分離して、労働に適さない解放的な夏に集中するよ うになるのは19世紀になってからであり、産業革命のもたらした労働とバカンスの循環は、ついに 教育のリズムも支配する。こうして夏のバカンスは家族総動員の国民的課題となっていくのである。

   さて、どこに出かけるのか。自由時間の究極の目的が自分と向き合い、産業社会で摩滅しそうにな った自己の再生にあるので行き先は思わぬところになっていく。自己の存在を追求して行き着くとこ ろは身体そのものにほかならない。生身の体の再生、つまり健康を求めて人はもともと貴族の愛用し ていた温泉街に殺到するが、大勢の人が押し寄せれば衛生水準は低下し、うっとうしくもなって逆説 的に温泉街は衰退する。人々は温泉街から浜辺へと拡散し、以前は自然の暴虐地帯でしかなかった海 岸や山腹が一九世紀には人間を魅了する先端地帯へと変貌する。無数の保養地が開発されて高地療法 やが流行り、海水浴場の日差しは海からビーナスが誕生したときのごとく訪れる人の身体を再生する と感じられた。

   身体のための時間を満喫すると、ついにヨーロッパ人の見果てぬ究極の旅が待っていた。魂と向き 合い、心の泉を見つめる瞑想を通じての自己再生への旅である。ヘルマン・ヘッセいわく「われわれ の東洋(オリエント)は単なる地理的な国あるいは地方ではなく、魂の祖国であり、魂の青春であっ た。それはどこでもあると同時にどこにもなく、あらゆる時代の総合であった。」こうして東洋は観 光の最終点となり、「滅びることのない場になる」と筆者はいう。  ヨーロッパ人が異郷への逃亡に自己救済を求める背後には、教会もまた産業社会の労働原理に荷担 するようになったと感じられたからであろうか。マックス・ウエーバーの『プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神』が刊行されるのはそのころである。